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文字の獲得は光の獲得でした「両目と両手を失って教師になる」

放送 2021年8月9日(月)午後6時05分〜[NHK総合]

放送前の予告

両目と両手を失った藤野さんが伝えたい、次世代へのメッセージ

「文字の獲得は光の獲得でした」不発弾の爆発で両手と両目を失った男性が、点字と出会い人生を切り開いていく。80歳を過ぎてなお教壇に立つ男性から次世代へのメッセージ

子ども時代、不発弾の爆発により両目と両手を失った藤野高明さん(82)。10年以上、文字のない日々を送りました。唇で点字を読む独特の方法を身につけたことをきっかけに、教師になろうと決意。障害に対する差別が根強かった時代、立ちはだかる壁を越えて夢を実現しました。今春、インターネットに人生をつづる動画を公開したところ若者たちに大反響。今、藤野さんが次の世代に伝えたいことは何か。人生とメッセージを伝えます。

朗読 佐藤二朗
語り 夏子

藤野高明さんプロフィール

昭和 13(1938)年、福岡市生まれ。7歳のときに福岡の自宅そばの小川で拾った不発弾により、両手と両目の視力を失う。1959年大阪市立盲学校(現・大阪市立視覚特別支援学校)へ入学し、1964年に卒業。1972年から同校の非常勤講師を経て、社会科教師に。著書に「あの夏の朝から」「楽しく生きる」など。東淀川区在住。

1938年12月、福岡市生まれ。
1946年7月、小学2年の時、不発弾爆発により両眼両手首を失う。
1959年4月、大阪市立盲学校中等部2年に編入。
1971年3月、日本大学通信教育部卒業。
1972年4月、大阪市立盲学校高等部時間講師。
1973年9月、同校教諭。
2002年3月、大阪市立盲学校退職。
2002年12月、第37回NHK障害福祉賞受賞。

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過去に放送された関連番組

文字の獲得は光の獲得でした「作家 柳田邦男が読む いのちの手記」

初回放送 2021年1月24日(日)午後2時30分〜3時20分[Eテレ]

障害と向き合う人たちの手記。作家の柳田邦男はそれを「人間理解の宝庫」という。直面する壁を越え人生を切り開いてきた人たちの真実の言葉。柳田邦男が作者を訪ね読み解く。

NHK障害福祉賞には、身体障害や精神障害などと向き合う人たちから半世紀にわたり1万3千以上の手記が寄せられている。作家の柳田邦男さんはそれを「人間理解の宝庫」という。そこには苦悩や偏見を乗り越え人生を切り開いてきた人々の真実の言葉がある。番組では柳田さんとともに過去の受賞者4人を訪ねる。人生に立ちはだかる壁を「文字で表現すること」を通し越えてきた人々の体験から、私たちは何をくみとることができるのか。

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藤野高明さんのインタビュー内容

※「NHK福祉情報サイト」より。

戦争が残した不発弾の傷を背負って

私が、見えない人と手のない人になったのは、小学校2年生の夏休みなんです。戦争が残した不発爆弾を危険なものと知らずに触っていて、それが爆発して目が見えなくなって、両手がなくなったんです。一緒に遊んでいた弟は死んだんです。これは私にとっては本当につらいことでした。もっとつらかったのは、私の父や母ですよ。父親は34歳、母親は31歳でした。私は6人きょうだいの一番上でした。若い父と母がどんなに、息もできないような苦しい思いをしたか。さっきまで元気でおった自分の子どもたちが爆弾で1人は死に、1人は大けがして。さっきご飯食べとったんですよ。で、ごちそうさまと言って、玄関に遊びに行って、そこで爆発したんですから。私は驚愕と苦悩というふうに時々言いますが、驚愕というのはびっくりすることです。苦悩というのは、どうしようもなく苦しむことです。

私は、それまでも手のない人も目の見えない人もいっぱい見ていました。というのは、私が通っていた小学校の隣が盲学校だったんです。だから、目の見えない人たちが足を擦りながら歩いたり、少し見える人の肩に手を掛けて歩いたりしている姿をいっぱい見てきました。で、そのときは、かわいそうやなあと思いました。で、両親から、「目の見えない人が困っていたら手引きしてあげなさいよ」って言われていましたから、よく手引きをしましたね。「どこへ行くんですか」って言ったら、どこどこって言うから、「そしたら、こっちですよ」って言ってね、よく手を引いたりしました。その時は、まさか自分がね、言葉を選ばずにいうとね、ラジオ、テレビ、新聞では使わない言葉ですが、自分が手なしのめくらになるとは思いもしなかった。かわいそうやなあ。不思議やなあと思いながら他人事だった。それは他人事であったわけです。健康な子どもにとっては、手なしもめくらも他人事。でも、他人事でなくなったんですよ。

差別の経験と家族の支え

父や母はつらかったやろなと思いますけど、一生懸命に私を励まし、生活を支えてくれていました。でも、私は子どもで、目が見えなくて手がなくて悔しいから、時々むちゃ言うんですよ。「俺をめくらと手なしにしたのはおまえたちやないかあ」って。これはね、誰かが私に教えているわけや。「こんなかたわの子にしたのは、親の責任やねえ」とかいって。昔は、障害者のことを「かたわ」って言ったんです。今はもう放送禁止用語ですよ。そしたら、子どもの気持ちの中に、それはどっかにあるわけや。

それで、母から「たかちゃん、こんなことしたらいかんよ」とか叱られた時、私は気に入らないと、「目え見えるようにしてくれえ」とか言うわけや。これ私が逆の立場やったらね、ほんとにつらいと思うよ。それでもね、母は黙って私の興奮が収まるのを待ってて、しばらくたってからこう言ったんです。

「あんた、さっきお母さんの責任やって言ったけど、それもあるよ。ごめんね。でも、お父さんもお母さんも、それが爆弾って知らんかったし、あれはね、戦争が起こってたくさんの人が殺されて、死んでいって、そういうものの残りかすがあったんやからね。もうお父さんもお母さんも、あんたとおんなじ立場やからね。苦しいんよ。誰が好きであんたをかたわにするね」

そんなふうに母親から言われたら、本当に僕も胸に落ちるんですよ。母親のそういう本音の言葉がね。言葉には、使ってはいけないような嫌な言葉もいっぱいありますけど、その母の言葉は子どもの私にも響きました。「あー、こんなお母さんのためにも自殺したりしたらいかんなあ」と思いました。やっぱり母親の本音の愛情とか両親の教えというのはね、自殺せずに頑張ろうと思う気持ちの下支えになってたんかなあと思います。

戦争と差別の密接な関係

戦争と差別というのはすごく相性がいいんですよ。差別とは、人を平等に見ないことです。私は障害を持ちましたから障害者の問題でいうと、障害を持っている人たちはね、すごく差別されたんです。だって邪魔になるじゃないですか。そこに人として生きているだけで。だから、私たちの先輩たちは、「邪魔にならんように静かに生活しなさいよ」と言われてたんですね。そして、戦争の役に立たないでしょ? 兵隊さんに行かれへんねんから。目が見えなかったり、足がなかったり、手がなかったりしたらね、鉄砲を撃つこともできないし、戦えない。

だから、そういう人たちは、非国民だとか、穀つぶしとか言われました。嫌な言葉でしょ?非国民っていうのは、おまえは国民じゃない、日本の国籍はあってもね、国民の資格はないのと一緒やぞということです。穀つぶしっていうのは、役にも立たんのにちゃんとご飯は食べるということです。そんなふうに言われてごらんなさいよ。言われる本人は嫌ですよ。そういうね、戦争と差別の時代を、私たちは日本の近現代史の中に持っているんですよ、ね。これはね、皆さんたちもこれからもずっと事実に基づいて勉強してほしいと思っています。

核兵器は人類と共存し得ない

― 藤野さんはこれまで全国で自分の体験を語っておられますが、その中で直接自分が体験したのではない核兵器の話にも力が入っているようです。

核兵器というのは、本当に人類と共存できない。いかなる理由を付けてもね、共存できない悪魔の兵器だと思います。通常兵器と核兵器は基本的に違う。通常兵器は言ってみたら、私1人で引き受けられるわけです。私の弟は不発爆弾のために5歳の命を散らしました。これはもう取り返しがつかないです。で、私自身も大きな障害を持って、私も苦しんだけれども、父や母は、私以上に苦しんだと思いますね。でも、言ってみたら、私と私の親たちが我慢して忍べば、他に広がらないし、子孫に残らない。でも、核兵器が通常兵器と決定的に違うのはね、大きな広がりと、子孫に災いをずーっと残していくということですね。そういう悪魔の兵器ですよ。

だから、アインシュタインだって湯川秀樹だって、やっぱり悩んだと思いますよ。自分たちが発見し、発想し、作り出したものが「実用化」されて、戦争の道具にされる、人殺しの道具にされ、不幸を爆発的に作り出して、それをずーっと時間軸でですね、後に残していくような爆弾。だから、それをね、いまだにまだ1万3千2万発もね、人類がいつでも爆発できる可能性の中に保有しているっていうのはね。

かつて長崎市長が言いました。人間は一体何をしてるのか。長崎や広島でこれだけ人殺しをして、その人たちがずーっと戦後苦しんで、あの苦しみを子孫に引き継がざるを得ない状況で苦しんでいるのに、人類はまだ核兵器と共存しているんか、とね。(2006年、当時の長崎市長 伊藤一長さんによる「長崎平和宣言」)。この言葉が、私はすごく痛切に感じますね。核兵器は人類と共存できない。

だから、私は、日本人が歴史の中で忘れてはいけない日というのは、第2次世界大戦に入っていった12月8日も大事やけれども、アメリカ政府のトルーマン政権から長崎と広島に原子爆弾が落とされた日を、私たちは負の原点、負の体験として、ずっと大事にせないかんと思いますよ。

それまで戦争を続けてきた日本の為政者にも問題はありますよ。すごくね。日本の軍隊なんてもう戦う力ないのに、戦争をやめない連中がおったんやね。4月に沖縄が地上戦の戦場になって、日本の軍隊は手の付けられない状態で逃げ惑い、普通の沖縄の人たちを盾に立てこもったりしてやね。もう戦争終わっているって誰が考えたって分かるじゃないですか。で、原子爆弾を落とされた。

だから、私は社会科の教員していたとき、高校の世界史でこういう設問をよくしました。

「第2次世界大戦の終わるときに、アメリカによって日本の2つの都市が原子爆弾を落とされました。その2つの都市とはどこですか」

「広島と長崎」と書いてほしかったんですね。「長崎と広島」と書いても、私はバツ付けません。時系列の問題じゃないですから、「広島と長崎」と書いてほしかったけど、「長崎と広島」と書いても、それは正解ですよ。

ところがね、書けへん生徒がおって、私が、「これ、広島と長崎や。こんなん知っとかなあかんし、授業でやったよ」って言ったら、彼が、「先生、でもね、広島や長崎知らんでも、あんまできるやろう」って言ったんですね。これはね、私は本当に許せないと思いましたね。許せないと思ったのはね、それは、勉強に対する、あるいは学問に対する、もっと言えば、歴史に対する、1つの居直りですよ。「知らんでもあんまはできるやろ」。

で、歴史に対する居直りだけでなくね、あんまという仕事に対するね、大変な誤解というか、あんまという仕事をおとしめている。だから、私は許せないと思いましたね。

「これは君な、そんな・・・」

私は泣きそうになりましたよ。自分がこんな生徒にしたんかなと。「広島、長崎知らんでも、先生、あんまできるで」というようなことを堂々と言う生徒を、私は生徒としてじゃなくて、人間として許せなかったんです。大体ね、生徒からそういうことを言われて、先生は反撃しませんよ、普通は。「ああ、そうか。俺悪かったんやなあ。教え方が悪かったから」と、大体反省するんですけど、私は、これは反省しませんでした。

これはきっちり言うとかないかんと思って、こう言いました。

「それは違うで。君、そんなこと言うんやったら、俺はな、広島長崎をそんなふうに考える人からは、絶対にマッサージやら、あんまやら、針灸してほしくない。そんなやつにな、俺の体触らせたくない。だからそういう開き直りは、これからはもう絶対にやめな」

「やめな」というのは、教師の最後通牒ですね。教師でなかったら、もうそんな人と付き合いませんよ。付き合わなければ済むことですからね。でも、先生って教員ですから、「もう絶対にそんなん言ったらあかんし、そう考えるのはよくないよ。君自身のためにもよくないで」って言いましたけどね。知らんかったら勉強したらいいんですよ。「先生、忘れとった」やったら、私は何も言いません。「しっかりまた勉強しいや」と言う。それをね、「知らんでも、あんまできる」と言われたのが、カチーンと来たんですね。カチーンと来たというより、グサッと来たんですね。

2020年10月25日の日曜日の早朝、私は朝のニュースに欣喜雀躍(きんきじゃくやく)したんですな。心が躍りました。それは何かというと、核兵器禁止条約が3年前に国連で調印されたんですが、調印したのが122か国で、批准した国が50になると、正式な国際法として発効するということになっていました。それで、早く50カ国にならないかなあと、私は心待ちにしとったんです。ジャマイカとナウルが48番目と49番目、そしてホンジュラスが50番目の国で、この条約がですね、90日後の2021年1月20日過ぎに発効することになりました。

カナダにいる日本の女性で自ら被爆された方が、「本当に心が躍るようだ」と言っていますが、核兵器の非人道性を訴えて本当に命懸けで運動してきた人だからこそ、心が躍るんですよ。それに引き換え、私たちの国の為政者たちは、まるで他人事のように、日本が戦争被爆国であるにもかかわらず、この条約の討議にも加わらず、署名もせず、署名しなければ批准はもちろんできませんから、他人事のように傍観していることを、私はとっても心配しています。

核兵器を禁止しようとして国際社会が頑張っているのに、戦争被爆国の日本がそれを批准しないっていうのは、私は許せない。「核兵器はあかん、ノーや」というのが、日本国民としてのアイデンティティーになれへんのかなあと思います。

平和と人権の時代

― 戦後も差別が急にはなくならない中で、藤野さんは苦労しながらも学校に行き、教師になることが出来ましたね?

日本が戦争していた時代ではね、視覚障害があって、両手がないっていうふうな状況ではね、学校にもやっぱり行けなかったでしょうし、大学も卒業できなかったやろうし、教職に就いて仕事を全うするっていうことも、当然あり得なかったと思いますね。それが戦後、平和と人権を尊ぶ日本国憲法に裏打ちされた日本の社会の中で、障害者運動も発展する。障害者の当事者運動の中で、教育だとか、働く権利だとか、政治参加の権利だとか生きる権利そのものだとか、そういうのが胸を張って主張できる時代であったからこそだと思います。

教員採用試験も紆余曲折はあったけれども受けることができたし、いろんな差別の壁を一つ一つ打ち破っていく運動ができた時代。もし戦争をやってて、人権が抑圧されるような社会では、障害者は人として生きていけないし、第一、人として認められないというか、それこそ戦前戦中、障害を持った人たちが国の厄介者、民族の恥としてね。特にハンセン病などの人たちは民族、国の恥として差別されてきたっていう歴史を思い返すとね、私はまさに時代にも恵まれたなあと思いますね。

― これからやりたいことは?

今の社会の全てがOKではないし、ちょっと油断すると時代はいつでも逆行しますからね。戦争は世界中で絶えていないし、弱い者をいじめるのは簡単ですから、差別はいつでも再燃するし、大きくなるし、広がるし、私たちは気を抜くことなく、私たちが勝ち取ってきた、みんなで築いてきた平和とか人権をね、やっぱり日々の努力で守っていかないといけないと思います。

障害を持つっていうことはお互いにあり得ることだし、人生はいつどのように暗転するか分かりませんので、障害があったとしても、人として自由に生きるためにはね、平和と人権こそが、本当に大事だと思うんです。

それを守るためには視野を広くして、何かあったときには、勇気を持って発言し、行動することが大事だろうと思います。だから、私はあと何年生きるか分かりませんけど、しっかり生きて、「ああ、よかったなあ」と言うだけじゃなくて、そういう社会を、次の人たち、自分の子どもや孫たちも含めて、教え子たちも含めてですね、次の世代に引き継いでいく役割を、最後まで担い続けたいなあとは思っています。

※この内容は、2021年8月9日に総合で放送の「文字の獲得は光の獲得でした ~両目と両手を失って教師になる~」の取材から作成されたものです。

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