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NHK「10人のお坊さん」の見どころ・再放送・見逃し動画配信は?

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「10人のお坊さん」ってどんな番組?

このご時世、モヤモヤすることや悩ましいことがたくさん!そんなときはお坊さんのお話に耳を傾けてスッキリしませんか。十人十色の説法には、モヤモヤや悩みの解決だけでなく、教養としても身につけておきたいステキな言葉がたくさん詰まっています!

お坊さんの説法を通して生きる知恵を学ぶ2回シリーズ。

司会 石澤典夫
ゲスト 増田英彦(ますだおかだ)、宇垣美里、釈徹宗
お坊さん 篠原鋭一、川村妙慶、桂紹寿、三木大雲、長谷雄蓮華、安達瑞樹、関本和弘、武田正文、露の団姫、小池陽人

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「10人のお坊さん」の再放送・見逃し動画配信は?

「10人のお坊さん」の再放送については、現在のところ未定です。

また、同番組の見逃し動画は、NHKオンデマンドユーネクストで配信される予定です。ただし、配信期間は放送日の翌日から約2週間となりますのでご留意ください。

NHKオンデマンドは、NHKが放送した番組をブロードバンド回線を通じて、日本国内限定でPCやスマートフォン、タブレット、高機能TV等に有料で配信する動画サービスのことです。NHKオンデマンドは、見逃してしまった番組やニュース番組、そしてもう一度見たい過去に放送した番組を、いつでも好きな時間に視聴することができるというメリットがあります。ただし、NHK番組しか見ることができません。

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なお、NHKの見逃した番組を見る方法は、コチラの記事をご参照ください。

NHKの見逃し番組を見る方法

(注)なお、本ページに記載しているユーネクストの情報は2022年2月時点のものです。 最新の配信状況はU-NEXTサイトにてご確認ください。

10人のお坊さん

前編 2022年1月2日(日)午前7時〜[BSプレミアム]
後編 2022年1月7日(金)午後10時〜[BSプレミアム]

このご時世、モヤモヤすることや悩ましいことがたくさん!そんなときはお坊さんのお話に耳を傾けてスッキリしませんか。説法を通して生きる知恵を学ぶ2回シリーズの前編。

番組では10代~70代以上の各世代1000人ずつ計7000人に心のモヤモヤや悩みをアンケート。その中から、前編では「他人のささいなことにイライラする」「承認欲求が満たされない」「生きる意味が分からない」という3つのテーマをとりあげて、お坊さんたちが説法を行う。十人十色の説法には、モヤモヤや悩みの解決だけでなく、教養としても身につけておきたいステキな言葉がたくさん詰まっていた!

また、後編では「忘れられない過去が振り切れない」「自分の見た目が嫌」「子育ての悩み」という3つのテーマをとりあげて、お坊さんたちが説法を行う。十人十色の説法には、モヤモヤや悩みの解決だけでなく、教養としても身につけておきたいステキな言葉がたくさん詰まっていた!

  • テーマ1 イライラ
  • テーマ2 承認欲求
  • テーマ3 生きる意味
  • テーマ4 忘れられない過去
  • テーマ5 見た目
  • テーマ6 子育て

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この番組で紹介された説法

テーマ1 イライラ

臨済宗 桂紹寿さんの説法

皆さん、よくご存じの言葉に『四苦八苦』という言葉があるかと思うんですが、人間は苦しみながら生きていかないといけないんですよね。じゃあこの苦しみのもとはなんやと言われると、自分の思い通りにならないこと、これが苦しみなんです。

実は大事なことほど自分の思い通りにはならないんですよ。年取りたくないでしょ。でも年取るんですよ。病気になりたくない、病気になるんです。死にたくない、100%の確率で皆さん死ぬんですよ。自分の思い通りにならん世界に生きてるくせに、それを無理くりにでも自分の思いどおりにしてやろうとするから、苦しみって実はどんどん大きくなっていってしまうんですね。

そもそも私ら人間が生きてるこの世界というのは、自分の思いどおりにならん世界なんやでっていう、そこから実はスタートしていかなあかんのですわ。じゃあどうすりゃええんやって言われると、あるがまま、そのままを受け入れていけばええんです。自分にとって都合がいいとか悪いとか、そういう分別をいったん全部捨ててしまうことなんですよ。

100人おったら100個の価値観とか正義があるのが当たり前なんです。みんな違っていて当然なんです。違っていて当たり前やのに、それを自分の価値観が正しいと妄想してしまって、自分以外の人にまでその自分の価値観を押し付けるからイライラってしてくるんですよね。

違いを受け入れる、その柔らかな心というものをお持ちいただくことが大事なんだと思います。これを仏教の言葉で『柔軟心』というんですけれども、そもそも自分がいるこの場所というものは思い通りにならない世界なんやでというところを忘れないことだと思うんです。ただ、それってなかなか難しいことですから、それが簡単にできひんというのやったら、怒るのもいいし、悲しむのもいいし、喜ぶのもいいと思う。ただ、その一瞬だけにしておくことです。あとはもうね、すぐ忘れたらええんですよ。

融通念仏宗 関本和弘さんの説法

誰でも自分の中に物差しがあるんですね。例えば、センチを測る物差しでインチを測るとすごく不便です。センチで育った人間とインチで育った人間が意思疎通を図るためには、お互いの歩み寄りが必要になってきます。

そもそもイライラするには相手が必要です。中国の戦国時代の思想家、荘子の書いた逸話で、舟で川を渡ろうとしているとき、人が乗っていない空の舟が来て自分の舟にぶつかったとします。このとき、舟に乗っていたあなたは怒るでしょうか。おそらく腹を立てないでしょう。ところがその舟に船頭さんが乗ってて、こっちに近づいてきたら、注意もしますし、果ては怒鳴り声を上げたりするかもしれません。同じく舟がぶつかっても、人がいるといないとではこんなに違いがあるのはなぜなのでしょうか。そもそも、イライラするためにはやっぱり相手が必要だということなのです。

そのとき、自分の心の中には相手を自分の思い通りにしたいという欲が湧いています。思い通りにならないときにイライラがたまってくるのです。そもそも他人は自分の思い通りにならないものなのです。私がここでいくら念じてみても、これを聞いていらっしゃる皆さまの腕を動かしたり、あるいは口を動かしたりできないように、自分の体しか自分では動かせないのです。まして、相手の考え方を変えるのは至難の業です。それに比べて、自分の考え方を柔らかく変えることのほうがはるかに簡単です。他人のささいなことにイライラしたら、一度立ち止まってゆっくりと深呼吸をしてみましょう。

浄土真宗 川村妙慶さんの説法

何かあの人、私と違う、イラっとくるっていうことは誰でもあるでしょう。なぜイラっとくるんでしょうね。それは私たちの心には自我の心というのがあります。自我の「我」というのは右の字を見てください。「戈(ほこ)」という字です。普段の私たちは丸いお念珠のように、まん丸い気持ちがあるんです。しかし、「我が出る」、「イラッ」とくるのは、トゲトゲした念珠のように、気持ちがとんがった状態になっているんです。体からぴりぴりぴりっと戦う心が出ているということです。私が今、念珠をしているのは、私にも自我の心があるので、イラッときたときには、“あ、今、矛が出た、矛が出た”ということを、このお念珠で確認しているんですね。誰でもそんな気持ちはあります。

そのときに皆さん、もう1つ想像してください。私たちの心の中には、かんしゃく玉という玉があるんです。イラっときたときにはその玉をぱーんと投げたくなります。しかし仏様はかんしゃく玉の「く」の字を1回飲みましょう。つまり、「く」は「くすり」になりますよと。怒りが出たときは、私たちの体には毒素がたまってるんです。そんなとき、ろくな行動はしません、ろくな考えも浮かばないです。そのときには薬だと思って飲み込むんです。するとその薬を取ったあとの言葉が「かんしゃ(感謝)」になります。それが分かったときに、私たちは感謝の心が生まれ、そして人に対しても笑顔でお話しすることができるんです。

浄土真宗を開いた親鸞聖人は、“お念仏だけで救われる。”これはとても誤解を生むということで、当時、国のお叱りを受けて、新潟の地に流罪にあったんです。普通だったら私を島流しにしたものを許せんとなるところを、親鸞聖人は「哀れみなさい」っておっしゃいました。向かっていくんじゃない、その人にも事情があったんだ、社会の情勢があったんだ、あとは残念だな、と思えばいいんです。残念とは念を残すということです。戦う必要はありません、むっときたときには、今、自我の心が出たぞ、出たぞと、この心を確認しながら、最後は哀れみながら、いつか分かってもらうときが来るよなという気持ちでどうか生きてください。

浄土真宗 武田正文さんの説法

まずはイライラする心を整理してみましょう。おそらくそのイライラの中には相手に対する怒りだけではなくて、自分自身に対する思いも複雑に絡み合ってるのではないでしょうか。イライラしなくてもいいのにイライラしてしまう自分に対する嫌悪感あるんじゃないかなと思います。

仏教では怒りは『三毒』の1つ、『毒』と考えられています。怒りを抱くこと、イライラすることというのは、自分自身の心や体に悪影響があるわけです。怒りというのは抱かなくてもいいとは分かっていても抱いてしまうものです。

阿弥陀様の救いの働きを、宗祖、親鸞聖人は、さまざまな形でお説きになっています。『歎異抄』というお書物の一節に“善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや”。「善人が往生できるのであれば、悪人はなおのこと往生できるんですよ」というお言葉になります。少し変わった表現になってますね。私たちは怒りを抱かずに優しくいれる善人こそが救われるんじゃないかと思いがちなんですが、阿弥陀様はそうではないと。怒りを抱きながら、苦しみながら生きている人こそ、心配して真っ先に救ってあげましょうとおっしゃっているんだということでございます。

怒りというのは毒でございます。怒りという毒は私たちは飲まないほうがいい、飲まなくてもいいというのは頭では分かっている。にもかかわらず、この毒、怒りを心の中に抱えてしまいやすいんです。阿弥陀様は、「なるべく怒らないほうがいい」、「なるべくイライラしないほうがいい」、そうおっしゃいながら、怒りながらもイライラしながらも一生懸命生きている私たちを優しく見守っておられます。そのことを受け止めていただきましたら、自分に対する嫌悪感を少し横に置くことができ、複雑に絡み合ったイライラする気持ち、もう少しシンプルに捉えられるようになるかもしれません。

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テーマ2 承認欲求

真言宗 小池陽人さんの説法

承認欲求。これは多くの人が抱えているもの・持っているものではないかなと思います。ましてや、このSNSが盛んになった現代で、「いいね!」の数とか、自分への評価が数値化されるというか、可視化される社会にあって、何か目に見える評価みたいなものを求めてしまう。そういう世の中になっているのではないかな、というふうに思うんですね。

で、多くの場合が、自分は頑張っているのにそれを認めてもらえてないっていうことに対しての不満というのが多いと思います。これはやっぱり真面目な人とか、頑張っている人が陥りやすいんですよね。不真面目な人は、こういう悩みをむしろ持たないかもしれません(笑)。頑張って頑張って、いるのになかなか認めてもらえないという悩みが、やはり生まれる。

でも私が思うのは、頑張っているということがもう十分すばらしいことであって、それはもう自分で認めてあげていいんじゃないかなと思うんです。そして、このわれわれが大切にする仏教の教えの1つに、『施し』というのがあるんです。『布施』ですね。ただ布施という施しの行には、大事な条件が付くんです。それは何か。“見返りを求めない”ということなんです。どんなにすばらしいことであっても、見返りを求めてそれをしたならば、悩みをつくる原因になってしまうというふうに説かれるんですね。

正当な評価が受けられないっていうことに不満を持つというのは、正当な評価を、見返りを求めているということにもなるわけです。じゃあ、どういうふうに考えればいいのか。見返りを求めずに、ただ自分が信ずることをやっていくということですね。つまり、どういうことかというと、自分の価値というものを他人に委ねない生き方なんではないかな、と思うんです。

誰かからの評価を得てうれしくなることは、たくさんあります。自信を持つこともたくさんあります。でも、それはあくまでも、他人の物差しで、自分の価値を測ろうとしているんですね。そうであれば、それが続けば、いつまでたっても人に認められるために自分を変えていかなければいけないという思考に陥ってしまいます。そうではなくて、自分、『主人公』という言葉があります。これは仏教用語なんですね。自分の中の自分。周りの評価じゃない。自分にとっての自分が正しいと思うことを、ただひたすらにやればいいんではないでしょうか。

日蓮宗 三木大雲さんの説法

私、怪談からお説法を説く怪談説法というものをさせていただいてるんです。では、この怪談説法のきっかけになったのは何かっていいますと、夜中に公園に集まってる若い人たちに、実は一番最初、お説法をしようと思って近づいていきまして、なかなか話を聞いてくれないので、「お坊さんがする怪談聞かない?」って言って怪談をするわけですね。

一番最初に、私がある怪談をしたんですね。登場人物が、最後にふぅ~と消えていなくなった、そんな話を彼らにしたんです。そうしますと10代の集まりだったんですけれども、1人の少年が手を挙げるんですね。「三木さん、消えたそのお化け、僕です」って言うんです。え、どういうこと、思わず私が聞き返しますと、「いや、僕もう家に帰ると誰もいないように扱われる」、そんなことを言うんですね。実はその男の子、家庭に恵まれなくて、お父さんは1日酒浸り、お母さんはそんな家計を支えるために夜に仕事行かれるので昼間はいつも寝てられるんです。ですから、小学校から帰ると「ただいま」って言っても、「おかえり」って返してもらえないそうなんですね。

ある時、その子、頑張ってテストで100点を取って帰っていった。もしかするとお父さん褒めてくれるかも、そう思ってお父さんのところに100点の答案用紙を持って行くと、「それでお酒が買えるんか」そんなふうに言われたそうなんです。お父さん酔っぱらってるから仕方がない、次はお母さんのところに行って、「ねえねえ、お母さん!見て見て、100点取ったよ」って言うと、お母さんは、「もう~寝てる!邪魔しないで」って言ってビリビリに答案用紙をやぶったそうなんですよ。

人間っていうのは誰かに見てほしい、誰かに認めてほしい、そんなふうに思うんですけれども、これなかなかうまくいきませんね。ですから子供が頑張って勉強しますね。これはなんのためにかっていうと自分が将来お金持ちになるためではなくて、お父さん、お母さん、先生に認めてほしい、そう思って子供は頑張るので、大人の方はそれを褒めてもらいたいなと思うんです。

で、大人になってもその欲求をお持ちの方は、水泳と一緒で潜ろう、潜ろうとすると体、浮いてしまうんです。で、浮いていようと思ったら逆に沈んでしまうんですね。これと一緒で、認めてほしい、認めてほしいと頑張ってもなかなかこれ認めてもらえないんです。

ですから認めてもらえなくても頑張ろうとして生きることが、実はそのうち皆さんに認めてもらえるようになるんですね。ですからどうか、認めてほしいからやるのではなくて、やっていたら認められるような人間になれればなというふうに思います。

曹洞宗 篠原鋭一さんの説法

われわれ生きてるということはさまざまな苦しみに出合いますけれども、自分自身を認められない、自分のことを認めてもらえない。この苦しみは大きいですよね。で、最近、会社等で、職場等で自分と上司との関係がうまくいかない。自分のことを認めてくれない。あるいは同僚同士で、あいつのほうが先に出世した、俺はなぜ取り残されたんだって、そういうふうなことに対する苦悩の苦しみが、あるいは、つらさを私のところに吐き出したいと言っておいでになりますけれども、私たちの生きている社会っていうのは、根本的に申し上げておきますよ、仏教で『娑婆』という言葉があるんですよ。

娑婆、古代インド語でサーハーとかスーハーという、苦しみの世界っていわれているんです。でも、われわれは生まれた瞬間に娑婆という苦しみの世界に生まれたんだから、そういうさまざまな苦しみに出合うのが当たり前。

で、私が提案させていただきたいのは、どちらかというと相手を変えようとするのではなくて、自分自身が変わっていく。自分自身を変化させていく。

一人の人生で80年まで生きたとしますね。本当にこの人と出会えて良かったというのは何人だと思いますか。200人といわれているんです、一番多い人で。ひょっとしたら、嫌だ嫌だと思っている人も自分にとっては大切な出会いの一人である可能性は十分ある。どうかそういうふうな意味合いで職場というものを1回、見つめ直していただければと私は思っていますね。以上です。

融通念仏宗 関本和弘さんの説法

頑張っているのに評価されないのは悔しいものです。それに加えて、ほかの人が自分を追い越していくのは、ねたましさも湧き起こりますよね。以前、奈良のあるお坊さんに『静思』という言葉を教えていただきました。静かに思うと書きます。この“静かに思う”、たったこれだけの言葉ですが、ノイズの多い現代において、静かによく考える時間がない方々ばかりではないでしょうか。

こんなにやっても誰も評価してくれないと思うとき。こんなに頑張った自分を見ている自分がいるはずです。こんなに頑張った自分を一番知っているのはご自身なのではないでしょうか。人は他人と比べて一喜一憂しがちです。比べることは大事なことですが、一喜一憂するために比べるのではなく、他人と比べて足りないところと自分が勝るところを見つけるために比べる習慣を付けましょう。一つの物事にとらわれない見方が大事です。

奈良の興福寺の前の猿沢池辺りで、こんな歌を教えてもらいました。

“手を打てば女中はいと答える、鳥逃げる、コイは集まる猿沢の池”

手をたたくという1つの動作でも、お店の店員さんは呼ばれたと思って、「はい」と答える。鳥は撃たれたと思って逃げていく。池のコイは餌をもらえると思って集まってくる。三者三様の取り方があるんです。

多くの側面からものを見れるようになれば、仕事においても承認欲求が満たされずとも、モヤモヤすることが減ってくると思いますよ。

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テーマ3 生きる意味

曹洞宗 安達瑞樹さんの説法

なぜ生きる意味を考える必要があるんか。私はそこを考えるわけでございます。『中部経典』の中に『毒矢のたとえ』というお話が出てまいります。マールンキヤ・プッタというお釈迦様のお弟子のお一人が、お釈迦様に聞かはるわけでございます。

「お釈迦様、この世はどこまで続いてるんでしょうか、限りがあるんでしょうか。お釈迦様が亡くなったとき、どうなるんでしょうか。私が死んだらどうなるんでしょうか。」そう聞くと、お釈迦様はこうお答えになりました。

例えばあなたの目の前に毒の矢で撃たれた人が倒れているとしようと。その人がつらい思いをしてはるからと思ってお医者さんに診てもらおうとするんやけども、「ちょっと待って」と。「この矢はどこの民族の人が撃ったんか、どこの地域の人が撃ったんか、それが分かるまでは抜かないでくれ。」、そういうふうに言われたら、あなたはどうしますかと。

いやいや、そんなこと言うてる場合やない。お医者さんにはよ診てもらわなあかんやろと。そんなことをいろいろ考えてるうちに、亡くなってしまうやろと。

この生きる意味を考えるということも同じようなことが言えるんではないでしょうか。目の前のことをしっかりと見つめる。今できることをしっかり見つめる。例えば、目の前に洗濯物がたまっていたら洗濯をする。ご家族の方にお酒をやめたらどうですかって言われたら、家族の方に感謝をする。今、できることをしっかりと今、見つめていくということが大事なのではないでしょうか。むしろ生きる意味はその先にはっきりと見えてくると私は思いますが、皆さまはいかがでしょうか。

天台宗 露の団姫さんの説法

生きる意味が分からない。私も昔はそうやったんです。いつか死ぬんやったら、もう今死んでも一緒ちゃうかな。もうそれやったら、毎日死ぬの怖いなと思いながら生きるのもつらいなと、そういうふうに思っていた時期がありました。

そんな私を救ってくださったのがお釈迦様という存在です。お釈迦様はお生まれになったときに、『天上天下唯我独尊』とおっしゃいました。よく勘違いをされますのが、「この世の中で私ほど偉い人間はいないですよ」という意味でわりと勘違いをされているんですけれども、実はこの『天上天下唯我独尊』といいますのは、“私たち人間、1人1人がそれぞれにしかできない大切な使命がありますよ”と、こういう意味があるんですね。

お経の中には、『諦』という漢字がよく出てきます。実はこれは、「物事を断念する」という意味ではなくて、“物事を明らかにする”という意味があるんです。

では、自分はなんのために生まれてきたのか。これを明らかにするヒントが、自分の好きなこと、自分の向いていることにあると思います。人間は自分のことを一番よく知っているのは自分だと思いがちなんですが、実はそうでもないんですよね。自分の周りにいる自分の大好きな人、自分のことをいつも大切にしてくれる人ほど、自分のことをよく分かってくれていたりするんです。そういう人に、私って何が得意なんでしょうか。私、何したらいいんでしょうかって、素直に相談してみることも自分の生きる道、自分の生きている意味を見つけるヒントになるんじゃないかなと思っております。

お経の中では、私たちの命のことを『願生』、“願い生まれる”というふうに書かれています。私たちはどんな意味があって生きているのか分かりません。実は私も自分の使命を感じているようで、実はそれが自分の生きる意味とは本来違うのかもしれません。

正解は死ぬまで分からないかもしれません。それでも私たち自身は願い生まれてきた存在である。これだけはお経の中に説き明かされておりますので、自分の生きる意味を探しながら、今、自分ができる精いっぱいのことをこの瞬間やっていく。それが自分の生きる意味につながっていくのではないでしょうか。

浄土真宗 川村妙慶さんの説法

私は何のための人生なんだろう。生きている意味ってなんなんだろうと、そこにモヤモヤ出たときには、実はあなたがこれから成長するチャンスだと思ってください。人間は落ち込んでみないと生きる意味というのは見いだせないんです。あの人のために頑張ったのに、親のために、子供のために、好きな人のために尽くしたのに何この結果って思うことありますよね。人の為と書いて、『偽』りと読みます。もちろん、誰かの為に頑張るんですが、仏教では、“もしも裏切られたときにあなたはどう生きるんですか”、という問いをくださるんですね。

そこで生きる意味とは、味わう心だと思ってください。何事も味わうということです。それを教えてくれたのが、蓮如上人という僧侶です。蓮如上人は『御一代記聞書』の中に次の言葉を残しておられます。“かむとしるとも、のむとしらすな”。「かむ」と、「のむ」ということを教えてくれます。私たちは食事を口の中に入れるとまずかみますよね。そして、やがてそれを味わいながら飲んでいくんです。が、つらいことがあったとき、誰かに裏切られたときには、「ああもう、腹立つ」っていきなり、のみ込んでしまう。これを“うのみ”といいます。そのことの意味が分からずに、ただのみ込んで忘れてしまえ、はあまりにももったいないことですよね。

まずは、どんなことも、うれしいことも、悲しいことも、味わってくださいと教えてくれます。すると、自分の人生を振り返りながら、「ああ、これはこういうことだったのかな」、「あれは、こういうことだったのかな」ということをじっくりと人生を深めることができるんです。

食事もそうですよね。食事というのはただ砂糖が入った甘いだけだと何か物足りないですよね。そこにこしょうが入ったり、からしが入ったり、お塩が入ったり、酢が入ったり、いろんな調味料が合わさってこそ食事も深い味わいになるんですよね。ですから、皆さん、これからうれしいこともあるけど、悲しいこともこれからあります。すると、これが何かに変わるかもしれない。そんな気持ちで人生を味わってみてください。

浄土宗 長谷雄蓮華さんの説法

生きてることってつらいですよね。でも仕方がないんですよ。今、生きてるから。お釈迦様も4つの苦しみがあると言いました。生きていること、そして年老うこと、病に遭うこと、いつか死ぬこと。生きるってつらいんです。

生きるって漢字、皆さん知ってますか。横に3本、線があります。あの3本の線はなんだか知ってますか。春、3月3日、皆さん食べるお菓子がありますよね。ひし餅。あの色、覚えてますか。白、桃色、そして緑。これは、雪の色、新芽の色、花の色なんです。そして、斜めにある棒は春の明るい光、真ん中にあるあの1本の棒は、その太陽の光に当たって新芽が張る姿なんです。

私たち生きてます。そして生かされてます。1人で生まれてきて、死ぬのは1人なんです。この体には終わりがあるかもしれない。でも命も思いもその人が頑張ってきたことも終わることはないです。だからどう生きるか。精いっぱい生きていただきたい。精いっぱい生きる。

今を精いっぱい生きる。これが生かされてる私たちのこの目的なんです。そして精いっぱい供養してください。『供養』って何か。この体が終わったときに必ず大切な人とまた会えます。もう1回会ったときにどんな顔で会いたいか、どんなお土産持っていきたいか、どんなことしゃべりたいか。そのために生きる、皆さんの生き様、付ける足跡が供養なんです。

だから目的なんてどうでもいいんです。必ず皆さんの足元、その生きる意味はあります。生かされてるんです。死ぬまで、必ず死ぬんだから、そのときに、ああ、良かったなって思えるように、精いっぱい、精いっぱい、地に足を付けて、足跡たくさん付けて、精いっぱい生きましょう。

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テーマ4 忘れられない過去

浄土真宗 川村妙慶さんの説法

私たちは生きていると過去を悔やむということがあります。後悔っていうのはありますよね。「あのときこんなことしておけばよかった。」「いや、あのときもっとあの人に優しくしておけばよかった」と悔やむことは、この私ももちろんあります。しかし、過去があるから今の私があるんです。そしてこれからどういう生き方をしたかで、未来につながっていく1つの糸でつながっているということなんです。

私は、浄土真宗の僧侶なんですが、真宗の教えを歌で表したのが『正信念仏偈』。これを毎日いただいております。『正信』っていうのは、正しく信じるという意味です。実は正しいという文字なんですが、“一をもって止む”と書きます。

私たちは落ち込んだとき、過去を悔いたときは、ぜひ一度立ち止まりましょう。そして、そこで終わりではありません。ここからもう一度スタートラインを与えますよ、ここからあなたはやり直したらいいんですよ。それは年齢、関係ありません。これを教えてくれたのが私の兄でした。

私の兄は住職である父親を早くに失って、次はおまえが住職になるんだと周りから責められたんですね。すると兄は、ああ、お父さんが生きているときに教えを聞いておけばよかったと後悔し、そのまま兄は引きこもりになって、15年間、部屋の中でこもっていました。そのあと私は、兄の部屋に入ってみると、兄はなんと部屋で楽をしていたわけじゃないんです。15年間ずっと小説を書いていた。そのタイトルが「その後のウサギとカメ」でした。

「え、お兄ちゃん、なんで“その後”なの」って聞くと、「僕は部屋の中でお正信偈をいただいているときに、阿弥陀さんはここからもう一度やり直せ、それを後悔しているウサギの気持ちになって書いているんだ」と言いました。ウサギはあのとき昼寝をしなければカメに負けてはなかったのに、と後悔するんですよね。しかし、負けたことでウサギは自分の性格というのが分かったんです。そして、負けたことによって、カメさんと仲良く生きることができたんです。

ですから、負けたことを悔いるのではなくて、負けたことを機縁にここからもう一度やり直そう、生き直そう。その気持ちをぜひ、皆さん持ってください。

浄土宗 長谷雄蓮華さんの説法

忘れなきゃいけないこと、たくさんあります。でもどうしても思っちゃうんですよね。忘れなきゃ忘れなきゃ、苦しいな、つらいなって思うときほど心に残る。大切な人が目の前にいなくなった。これも苦しいです。大切な人のことを忘れちゃいけない。でも思いが薄くなってしまう。これも苦しいですよね。人間って生きていることがもう苦しいんですよ。忘れてしまうこと、忘れちゃいけないこと、心にいろんなことが積み重なっていくんです。つらいですよね。

でも、もういいんですよ。もう十分頑張ったしね。十分悩んできたし、もう十分苦しんできました。もういいんです。自分を許しましょうよ。やっぱり幸せになってください。幸せになることが大切。そして何よりも一番最初にまず笑ってみてください。許せないな、そう思ったら笑ってください。苦しいなと思ったら笑ってください。後悔があったら笑ってください。

阿弥陀様という仏様、『和顔愛語』という修行をなさいました。優しい言葉、そして笑顔でこの世の中を救う。「それが成し遂げなかったら私は仏様にならない」とおっしゃられました。

お地蔵様の顔、ご存じですよね。優しい顔してます。私たちにその心の豊かさを与えてくれます。お地蔵様のご真言は『おん かかか びさんまえい そわか』っていいます。高笑いなんです。つらかったら、苦しかったら、笑ってください。

花が咲く。咲くって字があるでしょう。あの「咲」っていう漢字は、実は笑顔の象形文字なんです。一緒に笑って進んでいきませんか。

臨済宗 桂紹寿さんの説法

昔、盤珪和尚さんという立派な和尚さんがおられたんですけれども、あるとき村人の方から嫁・姑問題について相談を受けたそうなんですよ。そこで和尚さんがおっしゃったのが、「あのとき嫁がこんなこと言いよった」「あのとき姑があんなことしよった」って思うさかいに腹が立って憎くなるけれど、それは記憶が憎いだけであって、記憶さえなくしてしまえば嫁も姑も憎いもんではないんだぞ、ということをおっしゃったそうです。さすが盤珪和尚さま、立派なことをおっしゃるなと思ってたんですけれども、ただ、記憶を自由に操ることができればそれはいいんですけれども、なかなか実践するのっていうのは難しいです。

だから、どうでしょうね。過去の思いとか記憶というのは無理に忘れようとしないことです。そして無理に思い出そうともしないことですね。忘れようとすればするほど、忘れようという気持ちに支配されていきますよね。逆にせっかく忘れかけてる思いというのを思い出そう、思い出そうとしますと、結局またその記憶を無理に引っ張り出してきて、それに苦しむことになってしまうわけですよね。

ふーっと心の中にそういういろんな過去の思いというものが浮かんできたときがあれば、そのときはほっとくのが一番なんですよ。心というのはおそらく”水面”と同じようなもんで、水面に石をぽーんと投げますよね。そうすると波紋がどんどん広がっていきます。それを無理におさめようとして、棒っきれかなんかを持ってきて水に刺してしまうと、余計に水面が揺れて波紋がどんどん立っていくわけですよ。

だから水面を穏やかにするための一番の早道は、何もしないことです。放っておいたら水面というのは穏やかになるんですよ。今いくら悔やんで、いろんなことに腹を立てたとしても、過去は変えられないんですよ。変えられないことをああだこうだといくら考えたとしても解決しません。

その当時はきっと自分なりの精いっぱいのこと、自分が一番良かろうと思ったことをやったんでしょう。それはそれでいいんじゃないですか。だから過去の思いに苦しんでる方がおられれば、無理に忘れようとしないこと。また、無理に思い出そうとしないこと。放っておくのが一番です。

日蓮宗 三木大雲さんの説法

私のことで恐縮なんですけれども、実は私、昔にあることがありまして、それがいまだにちょっとこう、心に引っ掛かってるんですね。これ、忘れたいなと思うんですけれども、もうなかなか忘れられなくて。いろんな方に私、相談するんですよ。そうしますと、いや、もう寝たら忘れるでしょとか、もう楽しいことを考えるといいよ、なんてことをアドバイスいただくんですけれども、やっぱり忘れられないんですね。

そこで、お経をひもときますとね、お経の中にはこんなことが出てたんです。『常懐悲感心遂醒悟』、少し長い言葉なんですけれども、どういう意味かというと、“常に悲観を抱いて、心遂に醒悟す”、そんなふうに書かれてるんです。

もっと分かりやすく説明しますと、常に悲観、悲しい思いですね。常に悲しさを抱きながら生きていると、心遂に醒悟す、やがて悟りに近づきますよ、ということが書かれてるんです。これを見た瞬間、私、過去のつらい思いをもう抱いていこうと、そう決心したんですね。

どういうことかって言いますと、“常に悲観を抱いている”=“自分がつらい思いをした過去の経験を持っている“と、やがて同じような経験した方が出られたときに、その人の気持ちになってあげられるんです。共感を抱けるんですね。「ああ、私その経験、一緒のような経験をしたから私も分かるよ」と言って、お互いがそれを乗り越えていく。そのためには、『常懐悲感心遂醒悟』もう過去の嫌な思いも一緒に抱きつつ、共に生活をしていくことで、もしかすると一緒の経験された方と出会ったときに、その方を救う一つのきっかけになるかもしれませんので、もし過去にいまだ何か持っておられる方は、それを抱いて共に生きていっていただけたらなというふうに思います。

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テーマ5 見た目

曹洞宗 篠原鋭一さんの説法

自分のあっちこっち嫌なところがたくさんある。言われてみたら、そうだと思いますよ。でも、それって誰の評価ですか。周りの人があれこれあれこれ言いますね。しかし、もっと自分で自分のことをうんと良く評価したらいいんじゃないですか。だって、自分は自分で他人ではないわけですよ。自分の人生を自分以外の人に代わって、ちょっと冗談めいて言いますけれども、私、高校生たちと話しているときに、ちょっと私、トイレに行きたくなったからあなた行ってきてくれと、高校生が、何をばかなことを言っているんだと、そんなことできるわけないでしょ。そうだって、人生も同じだと。自分の人生は私が主人公。人には絶対代わってもらえない。

で、自分で、ここがどうだ、ああだ。自分で自分を低く評価することはまったく意味がないと私は思っています。それは個性ですもの。そして、自分がこのような形で生きていること自身がとても自分の力だし、それから自分が生き抜こうとしている、深い深い自分を愛する思いだし、他人の評価なんてまったく当てになりませんから。重要なのは、自分で自分をもっと、すてきな人間だと。人と私はこんなところ違うじゃないか。

逆にですよ、みんなが同じ顔してたらどうなんですか。白い花ばっかりだったらつまらないじゃないですか。どの花、見てもきれいだな、赤白黄色きれいだな、だからいいんであって、もっと自分のことに対して自信持ちましょう。そして、自分でこんなすてきなところがあるというふうに自分をうんと評価しませんか。

いいんですよ、自分がそれは個性だと思ってもいいし、自分だけにしか、人にはない自分の宝物だと思ったらいいんで、どんな状況でも、私は駄目だ、人と比べているんじゃないですか、それ。比べる必要はない。自分は自分。わが人生は、自分が、私が主人公。人には代わってもらえない。他は吾にあらずってことは、人は私じゃないでしょ。自分でしょ。どうか自分をうんと高く評価して、うんとかわいがって、そして自分の人生、人には代わってもらえない人生を生きていこうじゃないですか。以上です。

融通念仏宗 関本和弘さんの説法

“配られたカードで勝負するしかないのさ”というのは、チャールズ・モンロー・シュルツさんの描かれたスヌーピーでのセリフです。何百万も使って整形に整形を繰り返された方をテレビやネットで見て、それほどきれいとは思えない。むしろ何もしなかった素顔のほうが良かったのではないかと思うことさえあります。

仏教の言葉に『渇愛』という言葉あります。執着の中でも特に激しい、渇きにも似た感情です。刺激に対しての渇愛、快楽への渇愛もありますが、自分の存在を認めさせたいという渇愛もあります。その渇愛を安易に埋める方法が見た目にお金をかける方法です。容姿に対して今、仮に良くなったとしても、必ずもう一段、もう一段と容姿に対して不満が出てきます。その欲はいくら埋めていっても埋まらないのです。

ではその原因は何かと申し上げますと、自分の存在を認められない、自分自身から来る渇愛なのです。自分の存在を自分自身で認めること、それができれば自然とこの渇愛は薄まります。そのために、いま一度自分の持っているカードを再確認してみましょう。ないものはいくら探してもないのです。自分では気付かないけれど、人から見たらうらやましいと思わせるカードを実は気付かず持っていたりするものなのです。人から見てうらやましいと思わせるカード、なかなか見つけられないですよね。

でも人は100人いれば100人のありようがあるもので、きっと自分自身の中、深く深く掘り下げていったところに“きらきらと輝くカード”、“配られたカード”が見つかるものと信じています。

天台宗 露の団姫さんの説法

私ね、ちっちゃいころから、口が大きい。これがほんまに嫌やったんですよ。もう小学生のころなんか、私、口裂け女っていうあだ名で呼ばれていたんです。で、なんで私、こんなに口が大きいんやろう。もっと口が小さかったらなって、ずっと思ってたんです。そんな私を救ってくれたのが、落語という世界なんです。

私は18歳のとき、露の五郎一門の露の団四郎という人の弟子になりましたけれども、大師匠、露の五郎(二代目露の五郎兵衛)から「お前の顔は落語をするのをピッタリや」って言ってもらえたんですね。この大きい口が落語を非常にはっきりとお客さまに伝えることができる。そして、お客さまも見ていて気持ちがいいと、言われたんですよ。で、それから、私、この自分の大きい口がすごく好きになりまして、自分らしく生きられるようになったんです。

見た目を気にするということは、ある意味では全ての人に好かれようとしているということでもあると思うんですね。太っているよりは痩せてるほうがいいとか、もう年いってるよりは若いほうがいいとか、いろんな考え方がありますけれども、それは一般的に言われていること。私たち人間の物差しでしかないんです。でも、私たちって、一緒に生きていく人間っていうのは、例えばパートナーでしたら、一人ですから、その一人の相手に好かれたらそれでいいんじゃないでしょうか。その自分の容姿、自分の中身を好きになってくれる相手、そういう人を見つけるほうが大切やと思うんです。見た目をいくら世間に合わせていっても、そのときに誰からも好いてもらえなかったら、それこそむなしい気持ちになると思うんですね。

私は、お坊さんになってから今年で10年になりますけれど、このつるつるの頭、これが、「そんな、結婚しているのに、旦那かわいそうやんか。旦那は嫌やと思うで、髪の毛伸ばせ」ってよう言われたんですよ。でも、私の夫は、「私のこの髪型が私自身なんだからそれでいいやんって、なんにも嫌なことないで」って言うてくれるんです。ですから、私は自分の愛する夫がそうやって言ってくれますし、私自身も、これが私のスタイルなので、これで本当に自分らしく生きることができているんです。見た目なんか気にする必要はありません。あなたがあなたらしく生きるために、今の姿の自分を愛してください。

曹洞宗 安達瑞樹さんの説法

見た目のコンプレックスっていうのは誰しもありますよね。私も小さいころからずっと背が低いので、今も低いですけども…、本当にそれがコンプレックスかなというふうに思うんです。

そもそもその前に、私たちの判断する基準っていうのはなんなのかなと思うんです。例えば暑いとか寒いとかっていうのは人それぞれやと思いますし、幸せとか不幸せっていうのも人それぞれだと思うんですよね。

このコンプレックス、見た目、例えば背が高いとか低いとか、鼻が高いとか低いとかって、私たちって果たして何を基準に決めてるんでしょうか。きっと自分が思い描く有名人だったり、俳優さんだったりっていうところがあると思うんですよね。

つまりは私たちって結局、自分自身の判断でそれぞれの基準を作ってて、そしてその判断に私たちが踊らされているということがあると思うわけでございます。

『信心銘』というお経ございますが、これの冒頭に”至道無難、唯嫌揀擇”という言葉が出てまいります。この仏道を極める困難なきことは、ただ揀擇を嫌う。選ぶ(=揀擇)ですね。選ぶことを嫌うという言葉で始まるわけでございます。好きとか嫌いとか、太ってるとか痩せてるとか、そういう選択を嫌うということでしょうか。

そしてこの『信心銘』という題名ですが、信心と聞いたら信仰のことかなというふうに思うんですけれども、そうではなくて、信心、自分自身の心を信じるということでございます。あらためて、自分自身のその気持ちにしっかりと向き合って、もうちょっと自分に自信を持つ。自分の心を信じるということができれば、このコンプレックスも少し軽くなるのではないでしょうか。

浄土真宗 川村妙慶さんの説法

私の知り合いにマルセ太郎さんという方がおられました。マルセさんは、私にこういう言葉を残してくれたんです。「妙慶さん、映画を見なさい。そして、最後の最後まで、エンドロールが終わるまで映画を見なさい」と教えてくれました。マルセさんも見た目ですごく苦労していたんです。周りからゴリラみたいだっていじめられて生きてきたそうです。そして映画に出合ったときに、映画は主役だけでは成り立たないということを教えてくれたな。いろんな人がいてこその映画なんだ。だから、主役を盛り上げられるんだ。見た目で悩むという方は、もしかしたら主役になりたいと思っているのかもしれません。しかし、それぞれの配役にも、また映画の中に出ていなくても、一人一人の存在ってあるんですよね。

それを教えてくれるのが、仏教では『無財の七施』、“7つの施しを1つだけでもしていきませんか”と教えてくれます。

1つ目が『眼施』、目のお布施です。アイトークという言葉があるように、今、特にマスクをしますから、目でしっかりと相手を見つめましょう。目のお布施。

2つ目が『和顔施』。やはり笑顔というのは人を和ませますよ。

3つ目が『言辞施』。言葉のお布施です。優しい言葉を使いましょう。パワハラという言葉が社会問題になっていますけど、人の心を乱してしまいますよ。

4つ目が身のお布施、『身施』といいます。自分ができることは率先して動きましょう。働くという字は人に動くと書くように、動くことでいろんなことが発見できます。

5つ目が心のお布施、『心施』。言葉というのは、心の使いといいます。日頃、考えていることが必ず言葉に出ます。失言だというのがありますけれども、やはり日頃、何を考えているかで言葉に出るので、気を付けたいですよね。

そして、『房舎施』。宿房の房と書きます。ひさしを貸すということです。想像してください。相合い傘。二人いるけど一人しか傘が持っていない場合には、半分ぬれるけど、半分はぬれずに済んだね、お互いさまという気持ちです。

最後に『床座施』。座席を譲る。電車の中でも席を譲る。もう一つは自分の座を譲るということです。

1つだけでもやってみてください。人間は見た目だけではありません。どれほどの施しができるかでその人の存在、温かみが出てくるんです。温かい人になりましょう。

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テーマ6 子育て

真言宗 小池陽人さんの説法

子育ての悩み、これは本当に多くの方が抱えておられると思います。なぜ悩むのか、それは愛するからですよね。自分の子供を愛するから、ちゃんと育ってほしいとか、立派までいかないかもしれないけども、ちゃんと育ってほしいっていう思いを持つのは当たり前だと思います。でもそれがなかなか思い通りにいかないというのが、子育ての一番の苦しみなのかなと思います。私は子育てをするときに一番大切になるお釈迦様の教えがあると思っているんです。

お釈迦様は『四苦八苦』といいまして、生老病死、人生には避けては通れない苦しみがあるということに気付かれて出家されます。そして悟られた。その悟りの内容はなんだったかというと、その苦しみに対してどう向き合ったらいいか。こんな言葉を残されてます。

『一切皆苦』という言葉です。一切、全ての事柄、それらは皆、苦と書くんですが、これは苦しみという意味ではなくて、思い通りにならないという意味なんです。つまり、お釈迦様はわれわれの人生で思い通りになることは何一つありませんよ。思い通りにならないということを深く深く知っていく。これが大切なことなんですよというふうに説かれたわけです。

この一番、思い通りにならないというのが子育てだと思うんです。自分の思い通りにしてくれないですね、子供は。親の思ったとおりに育たない。でもそういうもんなんだ。子供は親の思い通りにならない。子供は親の所有物ではないということに立ち返って、ちょっと俯瞰して見る。これができたらいいんですけど、なかなかできないんですけれども、でもこの一切皆苦という教えを知っていると、少し気持ちが楽になれるんではないかなと思っております。

皆さんも子育てで悩まれたときには、このお釈迦様の言葉、一切皆苦という言葉を思い出していただけたらと思っております。

融通念仏宗 関本和弘さんの説法

小さなお子さまをお育ての方へ。

お子さまは、「イヤ!お母さん嫌い」「お父さん嫌い」と言いますでしょうか。そんなことを言われたらショックですよね。できれば「お母さん好き」「お父さん好き」と言ってほしい。けれど思い通りにならないのが子育てです。子供にとって一番怖いのは親に捨てられること。一度でも捨てられたことがある子供はイヤと言いません。いつもにこにこして、大好きを連発します。

とびっきりの笑顔をえびす顔と言うように最高の笑顔です。ですが、その笑顔は親に捨てられた悲しい子供の笑顔なんです。僕はいい子だから、絶対にいい子でいるからと必死で訴えかける笑顔なんです。そんな親に捨てられた子供はイヤと言いません。皆さんのお子さんがイヤと言えるのは安心しているからです。安心してイヤと言える信頼関係を築けているのです。

また、思春期や高校生のお子さまをお持ちの親御さんへ。

お子さまが生まれて初めてその手に抱っこされたときにどのように思われましたか。東大へ入れとか、医者になれとか、玉のこしを狙えとか、そう思われた方はまずいらっしゃらないでしょう。ただ幸せで健やかに育ってほしいと思われたのではないでしょうか。それがいつしか自分の思い通りにならないことにイラだつようになっていくのが子育てです。それはご自身の我欲です。ご自身ができなかったことや思い描くゴールをお子さまに背負わすのではなく、お子さまを信じて見守ってみてはいかがでしょうか。

浄土真宗 武田正文さんの説法

子育てに対する悩み、いろいろお持ちのことだろうと思います。子育てに限らず、家族や夫婦、恋人、身近な人であればあるほど、私たちの人間関係は難しいものになってまいります。というのも、目の前の人が幸せになってほしい、良くなればいいという願いが強ければ強いほど、私がなんとかしなければ、この子をどのように導いてあげればいいのかという思いが強くなってきて、うまくいかないときに自分を責めてしまう、相手を責めてしまう、といったことになるんではないでしょうか。

浄土真宗の宗祖、親鸞聖人は、僧侶の中で初めて正式にご結婚され、子どもさんと共に家庭生活を営まれた方でございます。その中にはいろいろなご苦労があったと聞いております。しかもその中で親子関係の問題もあったそうでございます。親鸞聖人の奥様は恵信尼さまという方。私たちは「目の前の家族のことを導いてあげなければ」という思いでいろいろ思い悩むんですが、親鸞聖人と恵信尼さまは、「目の前の家族が自分のことを導いてくれているんだ」と考えておられたようでございます。

親子関係も同じではないでしょうか。私たちが子供を導かなければと思うと、思い通りにいかずに苦しむ気持ちがどんどん大きくなるかもしれません。そうではなく、目の前の子供が私たちのことを導いてくれているのかもしれません。

『小欲知足 和顔愛語』というお言葉がございます。小欲知足というのは“欲を少なくして足るを知る”。

私たちが幸せに生きるために必要なものは身の回りに十分あるんだよ、それに気付いてくださいね。そして、和顔愛語、“和やかな顔と優しい言葉”。私たちができることは和顔愛語、ニコニコと優しい言葉をかけることが子どもさんにできる一番の教育ではないかと思わせていただきます。子どもの姿から私たちは導かれ、そして私たちも子どもたちにとって導ける存在、お互いにそうなれたら幸せなんではないでしょうか。

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