BS-TBS「諸説あり!」とは?
BS-TBS毎週土曜日夜10:00~10:54に放送されている歴史情報番組です。
森羅万象に諸説あり!諸説の裏に新たな真実あり!ということで・・・、誰もが信じて疑わなかった歴史上の人物や出来事にある諸説を紹介してくれる番組です。
「聖徳太子は実在したのか?」
「邪馬台国はどこに存在したのか?」
「巨大ピラミッドはどのようにして作られたのか?」
「未解決事件の犯人は?」
あらゆる人類の歩み、そして森羅万象に…「諸説あり!」
この番組では、森羅万象…あらゆる事象について、世に存在する様々な「諸説」を掘り起こし、徹底検証。諸説の裏に隠された真相を手繰り寄せれば、新たな真実が浮かび上がる!
番組のMCを務めるのは堀尾正明と吉川美代子。ニュースからバラエティまで、数々の番組出演によって培われたトーク力と専門家にも劣らない知識量で番組を盛り上げてくれます!
再放送は、土曜日か日曜日の午後1時から放送されています。公式ホームページでご確認ください。
諸説あり!「薩摩最強伝説~戦国編~」の解説
今回は、薩摩最強伝説~戦国編~をお送りします。
今回、従来の説を覆す3つの諸説とは?
- 島津家は九州統一をするつもりはなく名誉を守っただけ
- 島津義弘は「鬼島津」ではなく人心掌握の達人だった
- 「島津退き口」は家康本陣の中央突破ではなかった
島津家は九州統一をするつもりはなく名誉を守っただけ
島津家はどうして九州統一への道を辿って行ったのか?島津家に代々伝えられていた下命は薩摩・大隅・日向の統一であって、九州統一ではなかったのです。それでは、いったいどうして島津家は九州を統一するまでに勢力を拡大していったのでしょうか?
実は、島津家は友好的な他国から援軍要請があると断れずに友好国を救済していっただけだったというのです。友好を結んでいる国に攻め入ってくる敵は自分の敵でもあるという考えから、メンツを保つために売られたケンカは買って出たのです。
その根拠としては、「島津家家臣の日記」に島津家の名誉や評判をとても気にする気質や「舐められたらやっつける!」という考え方が記されています。また、当時の島津家の戦術「釣り野伏せ」は、先陣がおとりとなって敵軍を自陣に引き寄せ八方から攻め込むという決死の戦術で小軍が大軍を打ち破る最強戦術だったようです。そうして売られたケンカを買っているうちに、いつしか九州のほぼ全土を制覇してしまったそうなんです。また、薩摩の強さは「いろは歌」によって皆の心をひとつしたことで、最強軍団になったとも言われています。
島津義弘は「鬼島津」ではなく人心掌握の達人だった
豊臣秀吉による挑戦出兵の際には、島津義弘が日本軍に加わり、サチョンの戦いでは島津5千の兵力で朝鮮軍6万の兵に勝利したそうです。朝鮮では、加藤清正、小西行長と並んで島津義弘も「鬼島津」と恐れられていたと伝えられています。しかし、「鬼島津」という表現が出てくるのは江戸時代中期以降であり、どうやらこの表現は後から誰かが島津の強さを誇張するために使ったものではないかと考えられています。
島津義弘という人物は、実は異国とのコミュニケーション能力に長けていたようなんです。もともと、薩摩は異国との交流が盛んなお国柄だったので、自然にそういう能力を身に付けていったのかもしれません。朝鮮に入って城を築いた島津義弘は、住民から信頼され年貢も徴収するようになっていたというから、その人心掌握術はすごかったことが伺えますよね。
「島津退き口」は家康本陣の中央突破ではなかった
関ヶ原の戦いで西軍の敗北がほぼ決定的となった時、島津軍は家康本陣を中央突破して退散したと言われてきましたが、どうやらこれは間違いのようです。
実際、島津軍1,500の兵に対して家康軍3万という兵力差を考えると中央突破をするのは不可能なんです。島津家家臣の覚書に記された内容からは、家康本陣の前後をすり抜けて正面衝突をかわしつつ一目散で逃げ切ったというのが真実のようです。しかし、家康の本陣近くをそう安々と逃がすはずはなく、島津家の重臣の多くが家康軍の猛追の犠牲になったことは言うまでもありません。
結果として、島津義弘が島津に帰った時には数十人になっていたと言われていますが、これも後からバラバラと帰国した家臣たちを含めると約半数は無事に薩摩まで戻ってこれたそうです。