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NHKスペシャル

NHKスペシャル ドラマ「アナウンサーたちの戦争」の再放送・見逃し動画配信は?

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「NHKスペシャル」の再放送・見逃し動画配信は?

NHKスペシャルの再放送は、NHK総合テレビで放映されます。本放送日の翌週または翌々週など概ね2週間以内の平日の深夜に再放送されることが多いので、番組表を調べるかNHKスペシャルの番組公式サイトでご確認下さい。反響が高い番組は、何度も再放送されています。でも、深夜の放送ということもあり、休日にゆっくりと見たいという方には、最近流行の「動画配信サービス」がオススメです。

「NHKスペシャル」の見逃し動画は、NHKオンデマンドやユーネクストで配信されています。ただし、「NHKスペシャル」の全ての番組が配信されるわけではありません。

NHKオンデマンドは、NHKが放送した番組をブロードバンド回線を通じて、日本国内限定でPCやスマートフォン、タブレット、高機能TV等に有料で配信する動画サービスのことです。NHKオンデマンドは、見逃してしまった番組やニュース番組、そしてもう一度見たい過去に放送した番組を、いつでも好きな時間に視聴することができるというメリットがあります。ただし、NHK番組しか見ることができません。

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なお、NHKの見逃した番組を見る方法は、コチラの記事をご参照ください。

NHKの見逃し番組を見る方法

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NHKスペシャル
ドラマ「アナウンサーたちの戦争」

放送 2023年8月14日(月)午後10時〜11時29分[NHK総合]

太平洋戦争では、日本軍の戦いをもう一つの戦いが支えていた。ラジオ放送による「電波戦」。ナチスのプロパガンダ戦に倣い「声の力」で戦意高揚・国威発揚を図り、偽情報で敵を混乱させた。行ったのは日本放送協会とそのアナウンサーたち。戦時中の彼らの活動を、事実を元にドラマ化して放送と戦争の知られざる関わりを描く。

  •  倉光泰子 (『PICU 小児集中治療室』 『今際の国のアリス』)
  • 音楽 堤裕介 (『アバランチ』 『インフォーマ』)
  • 語り 橋本愛 (和田実枝子役)
  • 出演 森田剛、橋本愛、高良健吾、浜野謙太、大東駿介、藤原さくら、中島歩、渋川清彦、遠山俊也、古舘寛治、安田顕、小日向文世、眞島秀和、水上恒司、降谷建志、忍成修吾、河井青葉、石川恋、古屋呂敏、水間ロン ほか
  • 取材 網秀一郎、大久保圭祐
  • 演出 一木正恵
  • 制作統括 新延明

「アナウンサーたちの戦争」のアーカイブスポータル

あらすじ

国民にとって太平洋戦争はラジオの開戦ニュースで始まり玉音放送で終わった。奇しくも両方に関わったのが 天才と呼ばれた和田信賢アナ(森田剛)と新進気鋭の館野守男アナ(高良健吾)。1941年12 月8 日、大本営からの開戦の第一報を和田が受け、それを館野が力強く読み、国民を熱狂させた。以後、和田も館野も緒戦の勝利を力強く伝え続け国民の戦意を高揚させた。同僚アナたちは南方占領地に開設した放送局に次々と赴任し、現地の日本化を進めた。和田の恩人・米良忠麿(安田顕)も“電波戦士”として前線のマニラ放送局に派遣される。一方、新人女性アナウンサーの実枝子(橋本愛)は、雄々しい放送を求める軍や情報局の圧力で活躍の場を奪われる。

やがて戦況悪化のなか、大本営発表を疑問視し始めた和田と「国家の宣伝者」を自認する館野は伝え方をめぐって激しく衝突する。出陣学徒を勇ましく送り出す実況を任され、ただ苦悩する和田を、妻となった実枝子が叱咤し目覚めさせる。そして館野もインパール作戦の最前線に派遣され戦争の現実を自ら知ることになる。戦争末期、マニラでは最後の放送を終えた米良に米軍機が迫る。そして戦争終結に向け動きだした和田たちにも銃口が迫る。

関係者のコメント

作・倉光泰子さん

企画書のタイトルだけ見た瞬間は、アナウンサーが戦争に立ち向かう話だと思いました。正義を貫くアナウンサーが登場し、情熱で人の心を絆す、そんなイメージです。ですが、そこに書かれていた内容は違いました。私たちが知らなかった真実がありました。衝撃でした。これはたくさんの人に届けなくてはいけない話だと、強く感じました。ドラマとはいえ、史実に基づく話です。たくさんの方にご協力いただき、慎重に言葉を選びながら、脚本を作り上げました。この話を伝えたいという制作チームの情熱が伝わるものになったと思います。この作品では、戦争の恐怖だけではなく、言葉の持つ力について描いています。戦争は過去のものではありません、世界各地で続いています。その一方で、以前と違い、誰もが好き勝手に言葉を発せる時代になりました。そんな今だからこそ、この作品が、戦争とは、言葉の力とは何なのか、考えるきっかけとなればと願っています。素晴らしいキャスト、スタッフのみなさんによって、どのように肉付けされるのか、完成が楽しみです。

森田剛さん

言葉には力がある。だからこそ、人間は難しい。撮影中そんな事を考えていました。和田信賢さんのセリフで、「信用のない言葉ほど惨めなものはない」という言葉に惹かれました。純粋で、繊細で、まっすぐで、優しくて、弱い、そんな人物を演じていた期間は、とても誇らしかったです。

橋本愛さん

とにかく、森田さん演じる和田信賢さんの凄まじい気迫に圧倒される日々でした。嘘や虚言が臆面もなく流布され、人々を惑わし、”大きな意志”の思いのままに人々は操作される。その先にあったのは、言葉にし難い悲劇でした。本当に苦しかった。でも、知ってほしい。この作品が描いているのは、きっと真実です。

高良健吾さん

言葉の力を信じていたアナウンサーの方々が戦争に巻き込まれ、信じていたものが徐々に崩れていく時に、それぞれの人物が言葉にどう向き合うのか。向き合い続けるのか。とても考えさせられる話です。今は結果が分かっているからこそ、戦時中の事を多方面から話す事はできますが、当時生きていた人達は今をとにかく必死に生きるしかなかったはずです。なにが正しくて、なにが間違いかはその時には分からなかったはずです。今より選択肢も情報も少なかった時代に自分ならどう生きていたのでしょう。もし自分が役のようにアナウンサーだったら自分から発せられる言葉の重みをどう感じていたのでしょう。戦争に巻き込まれる人々の苦しみを題材にしていますが、現場は充実していて、とてもやり甲斐のある役でした。

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主な登場人物・キャスト

和田信賢アナ 森田剛

戦前から全国的人気があった伝説のアナウンサー。1934(昭和9)年、日本放送協会に入局。相撲や野球の実況放送、ニュース、朗読、演芸番組など幅広い分野で活躍し“不世出の天才”と呼ばれた。太平洋戦争では、開戦の臨時ニュースと終戦の玉音放送の両方に携わった。戦後、ヘルシンキ五輪実況後に客死。

和田実枝子アナ 橋本愛

戦前の1939(昭和14)年に入局した女性アナウンサーの草分け。英語が堪能で才媛の誉れ高かったが、開戦翌年に和田信賢との結婚を機に退職し、信賢の仕事を支えた。戦後、ラジオの放送現場に復帰し、昭和最後の1988年までアナウンスの仕事を続け、昭和放送史と共に生きた。

館野守男アナ 高良健吾

開戦臨時ニュースを読み一躍名をあげた若手アナ。「アナウンサーは国家の宣伝者」と主張し、日本の勝利を力強く感情を込めた読み方で伝え続けた。しかし、インパール作戦に従軍して戦争の悲惨な現実を身をもって知り、姿勢が一変。終戦の玉音放送を反乱軍の銃口から身を挺して守ろうとした。

今福祝アナ 浜野謙太

大正末期の関東大震災で両親と弟を亡くす。情報途絶による災害被害の拡大を防ぐため生まれた放送協会に1938(昭和13)年入局。開戦時、長笠原アナと秘密裏にベトナムに派遣され、偽ニュースで敵軍を攪乱する謀略放送を実施。戦後はテレビニュースキャスターの草分けとして正しい情報にこだわり続けた。

志村正順アナ 大東駿介

和田信賢の1期下の後輩として1936(昭和11)年入局。松内や信賢に学び野球や相撲実況の腕を磨く。戦時中、7万5千人が集まった出陣学徒壮行会では、実況担当の信賢の不調で直前に急きょ交代。スポーツで磨いた即時描写力で乗り切る。戦後もNHKを代表するスポーツアナとして活躍し続け野球殿堂入りした。

赤沼ツヤアナ 藤原さくら

学生時代は実枝子と同級生、入局も1939(昭和14)年の同期だった女性アナウンサー。紫の和服をよく着た実枝子が“紫の君”と呼ばれたのに対し、モダンな洋服を愛用しぱっちりした目のツヤは”ベティー”の愛称で呼ばれた。戦時中もアナウンサーを続けていたが、1945年3月10日の東京大空襲で亡くなった。

川添照夫アナ 中島歩

1937(昭和12)年入局。太平洋戦争中、軍や情報局からの要請を受け、多くのアナウンサーが戦争をあおる情熱的な“雄叫び調アナウンス”になっていく中で、「宣伝・情熱は危険だ」と勇気ある苦言を呈し続けた。しかし軍に召集され、1945年3月フィリピンのミンダナオ海で戦死した。

長笠原栄風アナ 渋川清彦

1929(昭和4)年、集金係として入局。米良の個人指導を受け4年後アナウンサーに。潜水艇からの中継などアイデアマンとして頭角を現す。中国で軍に協力した放送実績を買われ、開戦前に軍と南方での放送計画を作成。開戦後はベトナムから偽情報を流す謀略放送を実施して軍のジャワ島侵攻を容易にした。

中村茂アナ 遠山俊也

ラジオ放送開始の1925(大正14)年に入局。青年将校らが官邸など政府機関を占拠した二・二六事件では『兵に告ぐ』の名放送で投降を勧告。告知課長としてアナたちを束ね、主観を交えず淡々と読む“淡々調アナウンス”を主導したが、開戦後は館野らの力強い“雄叫び調アナウンス”が主流となる。

松内則三アナ 古舘寛治

ラジオ放送開始の1925(大正14)年入局。野球や相撲など日本のスポーツ実況放送の原型を作る。講談調の実況が全国的に大人気で、アナウンサーの大御所として有名だった。太平洋戦争の開戦後は、フィリピンやビルマの放送局長を歴任して、米良や館野ら後輩アナの“電波戦”を陣頭指揮した。

米良忠麿アナ 安田顕

1931(昭和6)年に入局した和田信賢の先輩アナ。面倒見がよく後輩から慕われ、事務処理能力が高く開戦後に派遣されたマニラ局ではナンバー2として局長を支えた。子供好きでマニラから家族に宛てた手紙が数多く残る。戦争末期に最後まで現地で放送を続けて米軍の激しい攻撃にさらされる。

下村宏 小日向文世

終戦の年1945(昭和20)年4月、情報局五代目総裁に就任。直前まで日本放送協会の会長を務め和田信賢アナを信頼していた。会長退任の挨拶で「終戦のために就任する。殺されてもよい」と明言。国務大臣の情報局総裁として終戦工作に奔走し、ポツダム宣言受諾を働きかけ、天皇の「玉音放送」を実現させた。

並河亮 眞島秀和

日本放送協会で海外放送を担当していた番組制作のホープ。欧米各国の“電波戦”の状況や“謀略放送”の具体例に詳しかった。情報局発足にあたって、放送局とのパイプ役を求められ、情報局情報官として出向。戦時中には海外向け謀略放送「ゼロ・アワー」などの立案・実施にも関わった。

朝倉寿喜 水上恒司

早稲田大学生。野球部主将。1943(昭和18)年10月、神宮外苑の出陣学徒壮行会で送られ、終戦の年、特攻隊員として飛び立つ。

チャーリー吉井 降谷建志

ハワイ生まれの日系アメリカ人2世。1935(昭和10)年、日本放送協会が国際放送を開始するにあたって英語アナウンサーとして来日。信賢や並河と様々な新企画の番組を生み出し、信賢とは戦後に至るまでじっこんの仲であった。戦時中、愛宕山の海外短波受信施設で彼ら日系人スタッフが海外の情報を傍受した。

水本吉郎 忍成修吾

メディア統制を強化するため政府は従来の内閣情報部を拡充強化し、1940(昭和15)年12月情報局が発足。その第二部第三課長(放送担当課長)としてラジオ放送の指導監督を行い、国家の宣伝機関としての役割を求めた。太平洋戦争開戦後は敵への憎しみをあおる雄々しい読み方をアナウンサーたちに求めた。

米良鶴子 河井青葉

米良忠麿の妻。夫が家に招く同僚や後輩のアナウンサーたちを手料理でもてなす。米良のマニラ局赴任後は現地からの米良の手紙を頻繁に受け取る。夫は一年で帰国するはずだったが、赴任期間が延びて三年以上も帰らず。その間、留守宅で5人の子供を育てていたが三女を病気で亡くす。

保木玲子 石川恋

1943(昭和18)年、18歳の保木玲子は女子技術員第一期生40人の一人として入局。若い男性の多くは軍に召集され、様々な職業を女性が支えるようになっていた。保木は毎日スタジオ副調で技術員として放送を支えた。終戦の8月15日早朝、降伏を拒む反乱軍が放送局を占拠した時、銃を持つ軍人たちと対峙する。

青山正信 古屋呂敏

台湾放送協会から比島放送管理局に派遣され、米良総務部長の下で庶務・経理業務を続けた。米良が率いるマニラ局残留班は米軍マニラ突入の直前まで放送を続けた後、マニラ東方の山岳陣地に逃れたが、米軍の攻撃や飢えやマラリアで次々と倒れ、マニラ残留班17名のうち生還したのは青山だけだった。

深尾重正 水間ロン

マニラ局放送部職員として番組制作を行った。米良ともに最後までマニラにとどまり放送を続けた。米良が妻・鶴子に宛てた最後の手紙には、米良・深尾・青山の三人で最後の晩餐を食べた事が記されている。米軍の攻撃を逃れてマニラ東方山岳地帯を四カ月間転々とし栄養失調で亡くなる。

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